盆踊り中心の生活

盆踊りや祭りの体験記。身体で心で感じたことを綴っていきます。あぁ、明日はどこで踊ろうか。

《うたたねで踊るvol.2》岡本太郎が見ていた祭りの景色

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 “祭りは人生の歓び、生きがいだ。ふだん人は社会システムにまき込まれ、縛られて、真の自己存在を失っている。だが祭りのときにこそ宇宙的にひらき、すべてと溶けあって、歌い、踊り、無条件に飲み、食らい、全人間的なふくらみ、つまり本来の己をとりもどすのだ。”

 

“確かに、日常の生活は秩序なしには成り立たない。ルールに従い、苦労して糧を得る。だがそういう、社会生活を維持していくための規制、ノーマルな掟とは別のスジが、人間をつき動かす。ある時期に、突然秩序をひっくりかえす。いわば社会の対極的力学の不可欠の要素として、無条件の生命の解放、爆発が仕組まれている。そのとき人間は、日常の己を超えて燃えあがり、根源的な炎、宇宙と感動的に合体するのだ。それが「祭」だ。”

 

“かつての祭りにおいて、人々は超自然の神秘と交通し、ふだんの自分でない、自分を超えた存在になった。みんなが一体になって祭りを創り上げたのだ。
現代生活にはかつてのような神聖感はない。だが「人間」であることの深さと豊かさ、怖しさをも含めて、新たな決意で人生に対面し、存在の凄みに戦慄することは出来るだろう。それは新たな、生きるよろこびを回復することだ。そのような衝撃的なチャンスとして、すべての人が身をもって参加する祭りを創造したい。これが本当の人生であり、芸術であるからだ。”

 

 

 

岡本太郎が日本各地の様々な祭を巡って、写真と共に残した言葉たちだ。

冒頭の言葉に、一瞬で心を奪われた。

「そうだよ、そうなんだよ!」と思わず膝を打たくなるような言葉で溢れかえっていて、嬉しくなった。

祭りによって岡本太郎の心が揺さぶられている様子が、読んでいるワタシにもひしひしと伝わり、ワタシの感情までもが揺さぶられた。そして、その感動を実際に体験していることに羨ましさを感じた。


岡本太郎自身が撮った写真はどれも生々しくて、人々の息づかいや匂い、生活が伝わってくる。

昭和三十年代を中心とした写真や言葉なのだが、中には今も変わらぬ風景や人々の情熱がちゃんと残っているものもある。

何十年、何百年と受け継がれてきた祭りの姿に (微妙な変化、進化はあったとしても) 心を奪われる。


時代の変化によって無くなってしまった祭も、おそらく数え切れないほどあると思うが、その情熱だけはどこかで生き続けていて欲しいと願う。

 

 

祭の非日常の世界から、日常に戻ってくるのはなかなか大変だ。しかし、普段の生活があってこその祭。人間には「ハレ」と「ケ」が必要なのだ。そのどちらも欠いてはいけない。

 

 

エネルギーが爆発する瞬間は生きていることをまざまざと実感させられる。言葉では言い表せないほどの充実感と幸福感に包まれる。しかしその代償に、疲労感や寂寥感も襲ってくる。


普段からこんなに感情がアップダウンしていたら、身も心ももたないので、穏やかに日常生活を送り、フラットな状態に戻す必要がある。生きるとは常にその繰り返しなのだろう。

 

 

なんだかとても人間らしくて、安心する。 

そうやって上手く折り合いをつけてやってきたのだろう。

人間には「そういうもの」が必要なのだと思う。

 

 岡本太郎は祭りを通して、人間の本来の姿を、人間のおもしろさを見ていたのだろう。

 

 


さ、気持ちを切り替えて、日常生活に戻る準備をしなくては。

 

 

“今日もないし、明日もない。今だ。自分は自分であると同時に、みんなである。みんなであると同時に自分なのだ。
まさしく、今日があるがための命であったし、火が燃え、笛が鳴り、太鼓がとどろき、中空に月が冴える。
ここに人間と霊のなまなましい交流、対決が出現している。”

 

( 「岡本太郎と日本の祭り」より引用 )